EVHA’s blog

なぜ生まれたのか?なぜ生きるのか?

最後の転生~実録自伝人間<蓮友 心>~18 コラム 「仕事」

小学校の頃 

母方の祖母と新聞配達をしていた。

 

いつも目くじらをたて 

父にそっくりな私を憎しみをぶつけるかのごとく

私を憎み続けていた祖母が

働いていた新聞配達をすることになった。

 

最初は一緒にやっていたが 

なれた頃には 

できる範囲を伸ばしていった。

 

褒められることはなくとも 

それでも 

祖母と少しでも一緒にいられることが 

とてもとても嬉しかった。

 

 

16歳の頃 

友達の誘いで 

私はおまけみたいな感じで乗り気じゃない

とあるファースト店の面接を受けることとなる。

 

真っ赤髪

黒の洋服 

黒の爪 

黒の唇 棘だらけと髑髏アクセサリー

完全アウエー

 

 

「何でここで仕事をしようと思ったの?」

 

ハンバーガー テリヤキが好きだからす!!」

 

 

態度も言葉使いもかなり悪い

完全やばい奴

 

そして 私だけ受かった。

 

当時面接官だった春雄さんに聞いたら 

 

 

「顔が好みだったから笑」

 

 

と言う落ちつき。 

この場所で 翼と出会った。

 

 

 

20歳 保険営業

子育てをしながら 

出来る仕事と 

保険の営業をすることとなった。

紹介者の顔も名前は忘れたけれど 

紹介を受けて保険業営業へ

 

最初はなれない手つきで 

先輩達に手取り足取り指導してくれて

成績は新人で優秀な方だったらしい。

 

私自身 そこに興味はなかった。

ノルマとかあげてる人はちやほやされて

成績が上がらない人は 

給料泥棒 と差別されるのも気に食わない

飽きてやめてしまう。

 

 

ネットワークビジネス

中学生の頃の悪友からの誘いで 

ネットワークビジネスに手を出す。

いわゆるネズミ講だった。

 

最初は金融会社から30万の枠を借りていたが 

簡単にお金を借りれる喜びに 味をしめて

雪だるま式にゴロゴロと音を立てるように

借金が膨れ上がっていった。

信用していた人にカードを渡し更に

エスカレートしていく

総額600万

 

 

 

24歳には昼も夜も働く生活となり 

推定40〜60万稼ぎ

泡水のようにブランド物で身を包み 

遊びほうけていたお金はあっという間に無くなる。

 

睡眠時間 30分~2時間

 

私さえ楽しければどうでも良い

家庭はバラバラ 完全崩壊

毒親 毒女化していく

 

 

 

23歳の頃

風俗デビュー 

デリヘル 20歳だと偽り仕事を始める。

最低40~100万稼ぐ。

 

暴飲暴食

酒 

煙草 

男 遊びとお金を使いまくる生活をする。

 

足らなくなったら 

翼から 

借りる生活をするようになる。

 

 

 

その頃 あずみねぇねぇの繋がりで

オーラが見える先生がいると聞きつけ 

その先生のカウンセリングを受けることとなる後に

このアロマの仕事をするきっかけとなった。

 

 

24歳

先生のカウンセリングの時

 

「ここで働いてみない?あなたを鍛えてあげる」

 

私も一つ返事で

 

「ハイ」

 

と承諾し アロマの仕事にはいった。

 

 

朝から 終わりまで 

ずっと 掃除 仕事は掃除しかさせてもらえなかった。

 

 

「なんで何も教えてくれないんですか?鍛えてあげるっていたのは 嘘だったんですか?」

 

 

先生の一言

 

 

「掃除しなさい」

 

 

ぶつくさ文句を言いながらも 

掃除の仕事をひたすらにし続けた

 

3年の月日が流れ経った頃 先生は言った。

 

 

「アロマの勉強を教えてあげる」

 

 

2年後 無事卒業することができた。

その間も 受講生に技術を教える役をさせてもらえたりと 

メンタル面精神的なものが鍛えられるきかっけとなった

そして最も長く働いた場所でもあった

 

 

28歳 

翼と別れ 

借金まみれだった私は

子供達に

 

「パパとママどっちについていく?」 

 

 

と話をした

即答の娘

 

「えっ!ママといたらお金に困るでしょう?無理!

 

息子は意思表示ができない 

理解するには難しかった。

 

「うん。わかった」

 

 

確かに あっさりと身を引いた。

 

子供たちを連れて

生活することに自信がなく

何かと理由をつけて逃げだていた。

 

 

その後 

一人暮らしを始める。

その頃の仕事が 産婦人科の看護助手。

生と死を学ぶ命の尊さを知るステージだった。

 

毎日生まれる命があり 

毎日消える命 

 

悲しみと喜び

 

同じ数だけいる現状に戸惑いは

表に出すことはなかったけれど

毎日屋上に行って泣く日々を送る。

 

義輝が亡くなったあと

働く気力がなくなり

やむ終えず退社

 

 

 

 

落ち着きを取り戻し

新たなる仕事

認知症グループ介護ホームでの介護者として

働くこととなる

翼の母絹子のお陰で

介護するにあたっては

一通りこなせた

 

一番嬉しかったのが

食事を作った時

みんなが美味しいと

残すことなく全部食べてくれて

 

「美味しかった。また作ってね」

 

と言われた時は凄く嬉しかった

必要とされてる実感があった

 

シフト制だったため

朝 昼 夜と出勤自体の変動があり

夜勤の時に

私に異変が起こる

 

利用者さんたちが鳴らす

ベルの音が聞こえない

 

 

一緒にいた職場仲間がそれに気がつき

オーナーと話しあい

病院で耳の検査をすることになった

 

診断の結果 中度の難聴

 

 

私のわがまま

好きだからやりたいは通らない

命を預かる職場

もはや仕事をすることはできなかった

 

 

そして

居酒屋の厨房へと仕事を変更した

 

帰る時

職場の同僚が一緒に帰るよ

と言い始め

仕事中も

女として見てくる

居心地も悪くなっていき

 

本格的に料理をしたくて

辞めることとなる

 

 

 

 

 

 

善輝も亡くなった後

次女の花蓮と一緒に住み始めた頃

 

車の運転免許は持っていたが

車はなく

バスに乗って移動しないといけなかったけれど

料理のの仕事に関わりたくて

本格和食料理の調理場をすることになる

 

朝8時〜夜の0時

休み時間1時間

週5日

 

0時には

バスは通らないため

暫くの間

家に帰らず

一か月

インターネットで寝泊まりをしながら働く日々

 

ようやく

給料がきて

レンタカーを借り

通うようになった

 

 

親方は

女として私を見ていたため

デートに誘われ

断ったため

風当たりはかなり強くなった

 

それでも辞めずにいたが

次第に心も身体がボロボロになっていき

辞めることとなった。

 

 

花蓮との生活は

仲もいい時もあれば

言い争いは耐えなかった

耐えきれなくなっていく

居場所がなくなっていた

華蓮を家に残したまま

 

 

 

29歳頃

長野の派遣会社で働くこととなる

 

私にとって

この場所にくることは

とっても大事な大切な必要不可欠ことだった

 

 

母でも姉でも孫でもない

ただの人間として

自然界を司る龍さんたちが

いっぱいいる自然の中で

心と身体を私自身を癒す最高の場所だった。

 

 

東日本大震災地震を味う

 

 

死ぬかと思った

 

 

心配していた初めて私にかけてきた

母方の祖母からの電話

 

それで 沖縄に戻ることを決意した

 

 

そして

再び風族業界へ戻る

 

そこで出会ったのが

二番目の旦那さんとなる一樹との出会い

 

 

一樹と付き合う中で

 

「仕事をやめてくれ!」

 

と次なる昼間の仕事を探す

 

 

料理が好きなため

家から遠く離れた

琉球料理専門の店で働く

 

朝8時から夜の9時

週に5日働き

一か月

二か月

三か月働けど

給料2万

 

「料理の資格がないから仕方がない

まかないもタダで食べれてるんだよ

幸せだったでしょう

辞めたければ辞めればいい

いくらでも代わりはいる」

 

 

ただでさえ

遠い場所だったため

お金も底をつきそうになり

生活も苦しくなる

泣く泣く辞めることとなった。

 

 

そして

少し離れた

大きな病院の看護助手となり

真面目に働いた

 

そこでも

 

「5時までには

家に帰れる仕事

バスや車を使わない

家から近い5分〜10分の場所で

土日は子供たちのために

休める仕事をして」

 

 

何度も話し合い辞めることなる

 

 

近くでの仕事など

都合のいいところはなく

 

 

時間にも日程にも都合のいい

風族業界へと

再び戻ることなった

 

 

昼夜関係なく

二重三重の仕事の掛け持ちを

繰り返してきた20代だった

 

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